恒例の。担任によるとうちの子は、可もなく不可もなくと言ったところらしくて、それはそれでどんなもんかなと考え込んでしまった。
「家庭でこうしてほしいというのはありますか?」と聞いても、特別何もないと言われたし、反対に担任が「こうしてほしいとかいうことありますか?」と聞いてきても、もとより幼稚園の担任に期待するものなんて基本的になーんにもなくて、一所懸命考えてもまあ、怪我をしないことぐらいしかないと思ったから
「いーえなーんにもございません。先生のやりかたで結構でございます。お任せいたしますわ
」
なんて言っちゃったんだけどさ。
今になって思うのが、喧嘩。
義道っちゃんの孤独教
がしみじみ浸透した脳で、「人を嫌うということをつきつめて考えていくと、人を好きだと思うことについて考えるに至る」ということがわかってちょっと安心。
いやー自分がこのまま世間の人々全員を嫌って行ったら、ヒネた性格が病的にヒネていくんじゃないかとかなり心配してたんだけど。
人に期待しないでおく手法は、その人に裏切られてその人を嫌う必要がなくなるから?人の言葉を鵜呑みにしない手法は、その言葉とは違う条件で問題が起きたときに全然参考にならないことがわかって自分が苦しむ羽目になるから?とにかく多分、「人の言葉で考えると、その言葉以外でものが考えられなくなるから」だと思う。
義道っちゃんの著書群、あたしは結構いい順番で読んでるなと自分では思うんだけど、何度も繰り返して読むと彼は「キライになれ」「こう考えろ」とは言わなくて、「私はこう考えますが、あなたはそれをどこまで、どのように正確に考えていきますか?」と、結局「自分の言葉で正確に考えていくこと」をしてくれと言っているわけですよ。
困った。
自分を正しく責めろと言われても。
ただ「世間語」の意味はよーーくわかりました。
母親がそうだったからこれははっきりと理解した。
ところで今朝、あたくしはNHKの朝の連ドラをうっかり見てしまいましたよ。
えーと、ギプスをはめた娘がそれでも仕事に行くと。先週オペの予定だった患者さんが今週に繰り上がったから、どうしても自分がオペしたい。(彼女がオペを担当すると、それはその病院初だか何初だか忘れたけどとにかく女医として初になるから、)どうしてもやりたいんだと。それを親父が怒鳴りつける。
「オペが早まったのには、早くやらなきゃならない理由があるんだろう!それをそんな足のお前ができるわけないだろう!患者さんの立場になって考えてみろ!!!」
デター世間語だ。
と思いました。日本人が一般的に「相手の立場になって物を考えろ」と言う時、相手が弱者だという前提になっていると。いじめられている子に向かって「いじめている相手の立場になってみろ」と言う人はいないと。
つまりこの親父は、自分の娘が強者であり、患者が弱者であると既に認めているのですけれども本人はそれに「気づいていない」。
ここでもし娘が「患者の立場なんか関係ないわよ!」
「あたしがやりたいから行くのよ!今日やんなかったら誰に取られるかわかんないんだから!せっかくのチャンスをこんなギプスぐらいで逃したくないのよ!お父さんもあたしの立場になって考えてみなさいよ!胸に手を当てて考えればわかるでしょう!?」
とやってくれれば俺的には大正解なんだけど、まーそうはならんだろーな。
もう気になって気になって。
NHKだし、古今東西の無難な時間帯の視聴率を稼ぎたいドラマだし、おそらく全般的にこのような世間語に満ち満ちているのでしょう。そう思うと、お化け屋敷を覗きたい野次馬根性のような感情がムクムクと頭をもたげてきて止まりませんわおほほ。
さて今日のカウンタが不気味な数字を示しました。
見てみると、どこぞのどなたかが丹念にあたしの独り言を読んでいったご様子で。
しかもそのリンク元に笑っちゃったんだけど、どこぞのサーチエンジンの検索結果からで、そのキーワードっていうのが「○本○一 嫌」だったんだよね。
100%まず間違いなくこの人は、堂○○一のファンなんだろうと最初に思ったらもう可笑しくてさ。
「人を嫌うことを考えてから人を好きだと思うこと」について今考えているあたしの日記を、「ある人が好きであるためにその人を嫌いだと思う人について知りたい人」が読んでったわけですよ。
間違ってたらコメントでも書いてください。
当たってると思うんだけどね。こういうの心理学とか哲学で用語がありそう。アンチを読んで義憤を募らせるというか、アンチを丹念に否定して自分の感性の正当性を確認するというか。
あっ違った。数学だ。
反証だな。いや算数弱いから全然わかんないんだけど、このあたしが知ってるぐらいだからきっと相当簡単な公式に違いない。
でも個人の感情に反証を見つけて、反証に反証するのって意味のあることなの?もとい、反証に反証って矛盾するんじゃないの?
さあさあ掘り下げましょう。
AさんをBさんは好きです。Aさんのことを考えるととてもハッピーです。Aさんについてのいい噂を聞くと更にハッピーになります。しかしBさんは、Aさんについての悪い噂を耳にするとアンハッピーになります。さてここで、
必然的な分岐が設けられる。
- Aさんについての悪い噂を聞けば確実に不愉快になることがわかっているから、Bさんは自分の神経保護のためにもう聞かないように努力する。
- Aさんについての悪い噂を追求し、調べて回る努力をする。
ここで決定的に違うのは、前者は作業量が一定になり、後者は作業量が無限大になるという点だな。
なぜなら、Aさんは実在していても常にテレビやラジオといったマスコミのフィルタを通してしか観察することができないから。Webに落ちてる噂話は全てが伝聞であり、噂である限り多分に主観的であり、一方的であり、しかも過去形であって現場に居合わせることも不可能。
主観的で一方的な過去形の伝聞の真偽を確認する方法が
あると信じているのであれば、後者の作業量は無限大ですね。
愛の信頼性を確認するためにその作業が不可欠であるとするなら、無限大なことは幸いです。あなたは一生涯を通じてその信頼性を確認していくことができるでしょう。ただし、
Aさんがあなたの一生涯を通じてファンもアンチも大勢かかえる大スター
である限り。人の興味が失せればファンも減り、アンチも減りますので、反証に必要な材料が今日と同じ量かそれ以上が「永遠に」Webに落ちているとは誰も保証できません。
というわけで論証終わり。
今日の不気味なカウンタは、知らない誰かに必要な作業の材料を提供できたという意味では大変有意義であり、あたしの唯一無二の敵である「あんまり考えてない人」とその「知らない誰か」が表現型においてかぶっている可能性がかなり高いと思われる意味では大変愉快である。