晴釣雨読

As the train goes through the mountain path, leaning on the lightcyan window, only I would think about my fun.

「この文化は資本だ((この財産があれば自慢できる/虚栄心が満たされる/事業に成功する、など))」

って発見した時点でその人はその文化を有していない、それを体得する環境になかったということの証明になるそうな。かつ、後天的にその文化を浸透させようと「努力」する時点でその文化資本は資本じゃない、つまり、ニセモノなんだそうですよ。じゃあ、本物の文化資本とはどこにあるのか。
それは、自分が置かれた環境や身についた教養が「資本」であることを自覚していない人のもの。
たとえば、生まれて物心ついたころには既に(先天的にと言ってもいいくらいだ)一族が伝統的に嗜む○○を覚え、右隣の夏目漱石宅で文士らの薫陶を受け、左隣のジョンレノンに音楽の天才教育を施された、みたいな。
で、あたしのような凡人がそういうステキな環境や経験値を見て涎をたらたら流しながら「あらまあ」とか言って子供をインターナショナルスクールに入れたりバレエや武道を習わせたりする。
と、つまり本物は、親が思いついて資金に物を言わせて習わせずともそこに当然のように在るわけであって、「習わせよう」って時点でもう既にそれは文化資本とは性質が異なるのだ、と一笑に付されてしまいましたわ。