晴釣雨読

As the train goes through the mountain path, leaning on the lightcyan window, only I would think about my fun.

発見2つ。

レンジで暖めた化粧水をシートに浸して、顔に貼って考えてたら、「私がいつ私になったのか」というありがちな問いについて、ひとつ発見をした。
義母Hと喋ってるとたまに、初めて会った日のことを「あの時は本当に嬉しかったわ」って言ってくれるんだけど、そう言われるとなんとなく嬉しいんだけど、ちょっと待て。それはちょっとおかしい。
初対面なのに嬉しいとは意味不明。子供が例えば将来とんでもない殺人鬼になると知る由もない母親が「生まれた時は本当に嬉しかった」と言うのと同じで、私という箱が嬉しいだけで中身はまだ知らない。
まあこんな嫁だとわかった今もまだそう言ってくれるのはありがたいことではあるんだけど。
私という箱に私が入ったのは多分、初めて会った日でもなければ生まれた日でもなくて、考えるその都度。すると何も考えない*1日の私はどこに入っているんだろうかと唸りながらハラの贅肉をつかんでみたら、かなりの量がっしりと手のひらに入ることを発見。
これはまたなんと立派な霜降りだ!と感動しながら、ふと思いついて胸を掴んでみたら量感がまったく完全に同じ。胸と同じものがハラに!この贅肉も箱の一部。やばい。ここには入りたくない。

*1:食べるとか眠たいとか遊びたいとか、そういう生物学的な生活密着型の選択以外に何も思考しないことがホントーによくある。