晴釣雨読

As the train goes through the mountain path, leaning on the lightcyan window, only I would think about my fun.

出会い

相対的な幸福。自分という人間を成すものはこれまでの記憶。

自分のことは高い棚に上げて、委員長が昔の話を蒸し返した。

売られた喧嘩は高く買うことにしてる。

かなり消耗した。もう二度とするまいと思う。

 

しかし、自分が消耗するのがイヤだから、という理由はどうなんだ。

当面の見た目が平穏無事ならそれでいいのか。課題先送り。何か徐々に巨大化する地雷を見て見ぬふりをするようないやらしいものがある。

 

水掛け論の大喧嘩になるのはなぜだ。

議論じゃないから。討論でも、対話でもない。お互いが頭に来たことを相手にぶつけたいだけだから。いかんせん生産的に練ったところで、数学のようにたったひとつの美しい解がある話じゃない。だから難しい。そうだ多分そういうことだ。何か善きゴールが欲しい。それもできれば---で、---な、と欲をかいて喋るせいで、ただの消耗戦になる。

この先またケンカを吹っ掛けられたら、何を以てしてそのゴールとするのかを、最初に、最初の言葉を返すその前に、深呼吸して、考えなきゃならない。親だから親としてとかそんな構えたことじゃなくて、単に、人として、まず、自分を傷つけないために。

  

 

今日みたいにひどく腹が立つと本が読めなくなる。それを繰り返してこじらせると自分の周りに膜ができる。

そんなとき、この歌を聞いて救われたとか、楽器があったからやって来られたとか、友達と飲みに行ってぱーっと騒いだら忘れられたとか、だったらそれはその程度だったってことだ。いつぞやのevery.で、どこぞの民族料理店の店長夫婦が訛った日本語で頑張って切り盛りしながら、とりあえず笑いましょうとにかく踊りましょうなんてのを見てクソ阿呆らしい気持ちになったのはこれだ。

とりあえず視線逸らしただけ。解消したふり。見て見ぬふりしてることすら見て見ぬふり。諸悪の根源は厳然とそこにある。

 

でも実際は、その方が幸せな気分でいられる。目醒めると苦しい。現実は辛いから直視しない。嘘でも夢でもなんでもいい。楽しい方がいいに決まってる。バニラスカイがそう。アイランドもそう。トゥルーマンショーなんかも同類かもしれない。でも、やっぱり本当のことが知りたくなる。真実を知ることは辛いかもしれないが、現実は思ってたより厳しいかもしれないが、その全てを理解したい。こんな当たり前の欲求が湧かない人はどうかしてる。

そんな人は、そんな料理店で皆につられて笑って元気に食べて、難しく考えないで、イヤなことは忘れて前向きに、その日の楽しかったことだけを思い出して眠りにつく。それが欺瞞だと知る必要のない人だけが、毎日が楽しいと言って生き毎日が楽しかったと言って死んでいける。すると相対的には実に恵まれた幸せな人生だったってことになる。その人の記憶は、その人そのものだから。

人生なんてどうせ死ぬまでの時間つぶしだ。楽しい方がいい。今日の不毛なケンカなんか忘れて明日は仲良くやろうじゃないか。

 

そんなわけにはいかない!

 

その重大な何かを無視してるくせに楽しそうな人々に、あたしは嫉妬してるんだと思う。しかも、目を見開いてなきゃいけないとは思っても、何をどう見ていけばいいのかが皆目わからない。こんなに焦るのはそのせいだ。

でも今ひとつだけわかったことがある。これだけ文章が書けるならあたしの前頭葉はまだ無事だ。